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February 01, 2007
コントリビューションと研究
東です。
本日、最終発表をしました。
お世話になった皆々様、本当にありがとうございました。
え?結果を知りたいですか?感想?
全然だめでした。見ていた人は分かるかと思いますがw
これは、関わっている研究がダメなのではなく、自分自身の問題です。
最後の方は完全にメダパニをかけられていましたね。
もう、お恥ずかしい限りです。
なぜ、ああなってしまったのか、簡単に説明したいと思います。
はじめ、中間発表と同じ「あの質問」には、真っ向戦うか、うまくかわす気でいました。
そのように心の中で落ち着けて、ある意味でたかをくくって臨んでいたのです。
でも、とりあえずひやひやもののプレゼンテーションが終わって一息ついたあたりに頂いた
「あの質問」は、やはり私の理性ではなく、感性にうったえてくるものでした。
実際に出された意図としては、きわめて科学的な、というか、クールなものだったのかもしれないのです。
ですから、私自身のトラウマが災いしたといってもいいかもしれません。
『東君のコントリビューションは何ですか?』
私は、それは人生のテーマであって、研究発表の質問ではないと思っています。
私は、その答を明確に言ってのける人間を、傲慢なものとして少なからず否定的に見てしまうかも知れません。
私は、なにしろずーっとそれに悩まされて生きてきたのです。
「私には何ができるのか−それは誰のためになるのか」
就職活動で自己分析をすれば誰もが通る道でしょう。
そのあとは、誰もがそれに一応の答を出して生きている。
それは、その人の生きる自信であり、アイデンティティの形成に根幹的な意味合いを帯びている。
私には、それができませんでした。
自分には何もできない。
と、思うことの方がそれまでの人生に於いて多かったからです。
『だって、まわりのひとのほうがすごいんだもの。』(←これすら、まぁ、見る人によっては、いろんな意味で詭弁ですね)
でも同時に、劣等感の固まりのような自分に、ある一定の自信を持たせる考え方があります。
「たしかに、何かすごい一つができるわけではない。それでも、何もできないわけではない。」
そうやってアクションを起こすことでしか、そのような気分は解消できない、そう思ってがんばったつもりでした。
それでも、「やったこと」を全て述べたプレゼンの後で「一体それの何が意味あるの」と突きつけられると、
もう崩壊するしかありませんでした。これは自分の弱さです。脆さです。自分はまだ、幼いのです。
悔しいですが、これが今の私の現状です。
少なくとも、ああやって、いいわけがましく弁明したり、ひがみっぽく理屈を述べるのではなく、
本当に思っていることを熱くぶつければ良かった。
「私がいなかったら動かないプロジェクトをやっている自分にとって、コントリビューションは、全てです。もしそうでないものがコントリビューションであるならば、何もない、で良いです。」
いつも、ほんとうに伝えたかった答えは、時が去った後に思いつく。
そういえば、熱くて、かっこよくて、ロックな自分が、好きだった。少し泣いた。
投稿者 AZZIE : February 1, 2007 06:47 PM
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