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September 27, 2006

musekininron-antiresponsibility『無責任論』---AZZIE

musekininron-antiresponsibility『無責任論』---AZZIE

私の考える無責任とは何か、以下のkeywordあたりを参照しながら表現してみたい。

keyword-社会的責任, 管理社会, 環境管理, 責任の所在, 自由, 因果, 縁
使いたかったけど使われなかった方面の語nullkey-意志, 志向性, 自閉症的世界観

Youtubeで現在トップレートの動画の中でクリントン前大統領も繰り返す"responsibility"という単語。彼は在任中にテロ対策を自分がどれだかやったかということを、「大統領として当然の責務(responsibility)を果たした」という言い方で言及していた。求められたことに対して適切なアクションを返すーこのresponseという語義から遠くない時の「責任」と、そうでない「責任」がある気がする。それは、自明とされる社会的責任ー<生きながらにして背負うとされながらも、いっこうに誰からも何の説明のなされない、隠された権威・行動規範としての責任>のことである。

一般に、「あなたには責任感がない」というときの責任感とやらは、後者に属するものの方が多いように感じる。なぜならばそれは、応えるべき要求自体をはっきりと本人が自覚していない状態で相手の期待を裏切った場合の相手の言であることが多いためである。このため2者(自分ー相手)を全体のレイヤーで鳥瞰できたときにはresponseの責任と社会的責任は統一して扱うことができる。だが、現実には我々は互いに1者ずつのプレイヤーであり、responseしないことを社会的責任感が無いようにいわれたり、逆も然りな状態であること、問題の混同が起こることによって、そこに黒い空気や赤い液体が流れたりする(断絶や争いが生じる)。もちろん、片方でも俯瞰的に物事を見ることができれば違うのかも知れないが、現実的には難しい。これを平等に評価し、判断しようという社会的機関がある。すなわち、法曹界である。

法の世界では、しばしば責任の所在は大きな問題となる。精神鑑定の結果、元来犯した罪よりも罪状が軽くなったという例も昨今しばしば報じられるが、これは責任能力ーつまり、責任が本人ではなくて病気(病気にかかる責任や、病気を引き起こした責任はなぜか問われない)にあるという問題のとらえ方がされるからだろう。これは、因果関係の明らかさにも依存する。

因果関係が明らかなとき、因(原因)となる部分を何かやってしまうと、果(結果)が起きたときに責任を取らされる。世界中いたるところにビデオカメラが設置されていて、どんなことでもお天道様が見ている状態になったら、全ての行動は因だらけであり、すなわち責任というものにがちがちに束縛されて、行動しにくいことこの上ない。だがこれは、現代がまさに直面している問題である。そして全ての人をどんどん罪深い存在に追いやっていく因果と縁、その根源にある概念が責任なのである。

責任は、いつ発生したか。古代に思いを馳せてみる。人間以外の生物に「責任」はあるか。私は無いという立場の人間だが、(「生物は存在するからには生きる責任がある」等の文学・哲学的表現の話ではなくて、概念自体が彼らの間に存在するか、の話である。)私たちが、彼らの行動の中で最も責任を果たしていると感じる本能的でない社会的行動の最たるものは、食料の取得運搬ではないだろうか。すなわち、雄鳥が雌鳥と雛のためにせっせとエサを取ってくる、アレである。

「男は稼げ、女は産め」などと言うと前近代的だとか封建的だとか言われそうだが、今の世の中も実際にこのような社会的「圧」は掛かり続けているように私は感じる。この感情が仮に責任の起源だとして、「全ての男がエサを取ってくるのが当然」の世界であれば、果たして責任という言葉は生まれただろうか?私には、その状態が考えられない。責任という言葉を使う機会がないのだ。

そう考えていくと、なんとも逆説的なことに、責任という概念は、無責任な存在があることによって結果的に求められ、作りだされたことが分かる。例を挙げれば、原始時代にも映画「男はつらいよ」の寅さんのような人間が居て、「あんたは本当に仕事(エサ捕獲)もせんで、無責任なダメ男だねぇ」と、どこぞのおかんだか他人だかがガツンとやるのである。これが責任という言葉の起源ということになる。

エサも取らずにさぼっている2割の働き蟻の話が最近CMになったりしたが、彼らもこの論法で言うと無責任だということになってしまう。だがもっと詳しい話をすれば、淘汰に対抗する社会システムとして働かないアリは必要があって存在しているので無責任ではないのであって、兎にも角にも人間ほど歴然と無責任な存在を編み出した生物は居ない。よって、二重の意味で責任、いや、無責任とは、人間発祥の概念なのである。

さて、責任よりも無責任が強いとか、その概念は人間様のオリジナルだとか、「無責任」の旗色が良くなってきたところで自称兼他称無責任の私が無責任を祭り上げる演説を打ってみようか。

「こうまでして(実感を込めて)悪とされ、種全体にとってのガンであるように扱われる無責任という存在が、人間社会の中で何故ここまで蔓延り、無くならないのか!人よ、分からなくなったときははじめに戻って考えよ!すなわち、ルーツを探れ。餌も取らずに放浪した人間がいったい何をしてきたのか!現行の社会の中で仕事と呼ばれるものを毎日を埋め尽くす行動とすることを拒否し、他人から見て全く意味がないと思えるようなことをしてきた人間が何をしてきたか!!餌を取らず砂に何かを書いていたものが絵をつくり、文字を作った!餌を取らずに石をたたき、歌を歌っていたものが音楽を作った!そして文明を作り、偉大な発明をして新しい時代をつくってきたのは、いつもその時点の世の中ではこうした無責任な人間だったのではないのか!」

後記・・・無責任であることをそこまで称揚しないまでも、責任ということばの重圧からはそろそろ解き放たれてもいいと思うよ。そのための「法」だという考え方もできる。自由のためにある法は、僕は好きかも知れない。(これはきっとロックだ(もちろん2重の意味で))

投稿者 AZZIE : September 27, 2006 05:35 AM

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